自分を基準にすることの間違い
自分を基準にすると、突出したものは特別に見える。
歌舞伎役者になるのが当たり前の家。
代々プロバレエダンサーになる家系。
それは特別なのではない。何を当たり前として見ているかの違い。
私が学んでいる系列は、時折「一般の人の手の届かない難しいもの」と思われる。
どこを基準にして見るかによって、リアリティは変わってくる。
いま自分のいる世界が普通で、向こうは特別だと思うのか、
向こうが普通で、自分のいる位置は何かおかしいかもしれないと思うのか。
私は向こうが基準だと思って生きてきた。
特別な世界と思って諦めるのではなく、普通だと思って取り組む。
それは、大人になってからバレエダンサーを目指すのは当たり前だと見ているようなもの。
そのほうが、上達するに違いない。
環境は変えられないのではなく、考え方を変えることで変質する。
愛とは何か
地上の愛は、愛ではないという。
恋愛、家族愛。博愛も愛ではない。
それらはすべて、個から対象へ発せられるものだから。
愛とは、根源的なもの(一なるもの)が限界まで広がること。
人々はその限界地点の存在であるために、自らを個だと思いこむ。
個から発せられる愛はすべて偽物。
それは末端であることの迷い。
人や動物や自然を愛するのは、自分が未完成(個)だから。
或いは対象に根源的なもの(神)の片鱗を見るからだ。
根源的なものの片鱗を見る理由は、自分がそれでないから。
根源的なものが末端まで広がった時、その末端が独自の意思を持つことは求められていない。
例えば人間の体内から細胞が勝手に出て歩き回ることを、人は望まない。
人間は、細胞が人間の一部であることを望む。
神は、光の末端の人間が神の一部であることを望む。
もし、それでも人間が独自性を望むなら、それは根源的な愛を本当に忘れてしまった証拠だ。
個が独自に発する愛は、実はどこまで行ってもエゴでしかない。
自分を放射するという点だけ、本当の愛と似ているが、それ以外は何も似ていない。
本当の愛を知りたければ、個であることに固執せず、根源的なものの一部であろうとすること。
そうすれば、根源的なものが限界まで広がること、すなわち愛を知ることができる。
紙の本が好きなのに電子化した理由
本のにおいや質感なども、本質ではなく、その周りで漂う飾りだ。本や知識はもともと非物質なのだから、物質の中に閉じ込めておくべきではない。
本来は、本がなくても知識はなだれ込んでくるものだった。私はそういう世界に住みたい。紙本の電子化は、それに少し近づくようなイメージがある。
繰り返しになるが、私は紙の本が好きだったからこそ、電子化しなくてはいけないと思った。これからもそうやって、この世の習慣を手放してゆきたい。
裸が恥ずかしい理由
たとえば政治家は裸になっても衣服を脱いでいない人が多い。
彼らの多くは、社会的地位という衣服を自分そのものだと思い込み、それを剥ぎ取るのが怖いのだ。
アダムとイブは裸でいることを恥ずかしいと思った。
それは、本来性に戻る道を見失ったということだ。
政治家に限らず殆どの人は、根源的な自分の上に、衣服を何枚も重ねて着て、とうとう中心の自分は見えなくなり、忘れ去った。
そして衣服を自分だと思った。
肉体も衣服である。
しかし人々は肉体を自分だと思い、これを脱ぐと自分が消えてしまうと思っている。
「本当の裸の自分」に戻るすべを忘れてしまった。
そのことを思い出さなければならない。
そして衣服のほうが重要だと思っている今の信念体系を捨て去らなくてはならない。